10.有名人を紹介します
――すべての人間の一生は、神の手によって書かれた童話にすぎない。――
デンマーク出身の有名人
こんにちは。最近は土日に遊びまわっていたのでブログの更新が途絶えていました。また定期的に更新していきますのでお付き合いください。
さて、冒頭でご紹介した童話王アンデルセン。みにくいアヒルの子やマッチ売りの少女など、数々の名作童話を世に送り出した天才作家です。デンマーク出身の有名人といえば彼の名前が最初にあがると思いますが、他に日本で知られているような有名人はあまりいません*1。
今回は、この童話王アンデルセンの生い立ちについて、ちょっとだけまとめてみたいと思います。
ハンス・クリスチャン・アンデルセンとは
生まれ故郷
ハンス・クリスチャン・アンデルセンは、1805年4月2日にデンマークのフュン島(Fyn)中央部のオーデンセ(Odense)という街で生まれました。以前にも掲載した以下の拡大地図をご覧いただくと、下の方に太字で「Odense」という文字があります。
東にはコペンハーゲンのあるシェラン島(Sjælland)が、西にはドイツと地続きになっているユトランド半島(Jylland)があり、両者の間に挟まれているのがフュン島です。首都のコペンハーゲンからは、電車で1時間半ほどの距離にあります。
父と過ごした少年時代
アンデルセンの生まれた1800年代初頭は、1804年にナポレオンがフランスの皇帝になり、英国やロシアに戦争を仕掛けようとしていた頃です。当時、デンマークはフランスと同盟を結んでいたため、敵国である英国からの軍事攻撃や通商封鎖を受け、ひどい経済不況の只中にいました。
アンデルセンの父は靴職人、母は洗濯屋さんでした。当時の欧州では、靴職人と洗濯屋という職業は地位の低い者が就く典型的な仕事でした。不況ムードの国家の中、最下級の家柄に生まれた空想好きの少年、それがアンデルセンでした。彼が童話作家になるきっかけを与えたのは、その靴職人の父だったそうです。
アンデルセンの父はあまり社交的な人間ではなく、物静かに文学を読むのが好きな人でした。他の靴職人からは変わり者と思われていたそうですが、息子のことはとても可愛がっていました。幼い息子に千夜一夜物語(アラビアン・ナイト)やフォンテーヌの寓話を読み聞かせたり、ときにはシェイクスピアの劇を自ら演じて見せたそうです。これがアンデルセンの豊かな想像力の源泉になっていたことは、想像に難くありません。
父の出征と他界
1812年、アンデルセンが7才のときでした。アンデルセンの父はフランスのナポレオン軍に加わり、出征することを決めました。父はフランス革命の流れを汲むナポレオンの思想(ボナパルティズム:Bonapartisme)に共感していましたし、軍に志願することでいくばくかのお金がもらえたので、家族の暮らしのために出征を志願したようです。
世界史に詳しい方ならご存知だと思いますが、1812年といえば、ロシア遠征でフランスが歴史的敗退を喫した年です。ナポレオン軍はロシアの過酷な寒気を前に無残にも敗戦し、軍は解散。そのさなか、アンデルセンの父親は辛くも戦争を生き延びました。
そして、アンデルセンが9歳のとき、アンデルセンの父親はデンマークに帰国します。しかし、最強と謳われていたナポレオン卿が敗北したことの精神的ショックと軍役の疲労とにより、彼は重度の精神疾患を患ってしまいました。それから2年後、彼は心の病で錯乱状態になり、1816年に亡くなってしまいます。
貧困の家庭に生まれ、11歳で最愛の父親を亡くすことになった彼の心情を精確に推し量ることはできませんが、その悲しい経験が、人魚姫やマッチ売りの少女といった悲哀の物語に漂う喪失感に通じているのかもしれません。
役者になる夢
アンデルセンは、父親の影響もあって物語や芝居が大好きでした。しかし、その貧しさから劇場に入ることはできなかったので、芝居の広告ビラ配りのおじさんと仲良くなって無料で芝居を覗かせてもらっていました。
そんなある日、コペンハーゲンの王立劇場の一座がオーゼンセにやってきました。たまたま子役が足りず、この芝居に臨時で出演することになったアンデルセンは、この経験をきっかけとして舞台役者になることを夢見るようになります。
そして1819年9月4日、アンデルセンが14歳のとき、彼は単身コペンハーゲンへ向かいました。母親は手に職を付けなさいと言い聞かせていたそうですが、彼の舞台役者への情熱を止めることはできませんでした。
しかし、彼の手元には、わずかなお金と王立劇場の役者宛の紹介状が一通。そんな無謀な上京計画が上手くいくはずもなく、アンデルセンはコペンハーゲンで数々の挫折を味わいました。周囲から俳優の才能はないと言われ、あるとき風邪をこじらせて美しかった歌声も潰してしまいます。常に貧しく、いつも空腹に耐えるような生活でした。
しかし、奇妙な運命の巡りあわせか、それとも彼に不思議な魅力があったからなのか、彼の下には定期的に何人かの親切な友人(パトロン)が現れました。こうした友人からの経済的な援助を受け、アンデルセンはラテン語学校へ通い始めます。そこで彼は、「声がダメなら書き物で有名になればいい。詩人(作家)になろう。」と決意しました。
その後、ラテン語学校で正しい読み書きを習ったアンデルセン少年は、コペンハーゲン大学に合格し、紆余曲折を経て、今日知られている数々の名作童話を書き上げることになるのです。貧困に苦しんだ一人の夢見がちな少年は、いつしか世界中の子供たちに夢を与える大作家に成長していきました。
オーデンセのアンデルセン祭り
というわけで、長々と偉人バイオグラフィ特集みたいな内容を書き綴ったのは他でもなく、私が先週、アンデルセンの故郷オーデンセに遊びに行ってきたからです。ちょうどオーデンセでは、年に一度のアンデルセン祭りが開催されていました。
デンマークにはほとんど日本人はいません。とはいえ、多少は日本からの移住者がいらっしゃるので、日本人会の方に連絡をとり、一緒にお祭りを見て回ろうという話になりました。
街中には童話「みにくいアヒルの子」をイメージしたアヒルの絵が描かれた看板が店頭に飾られていたり。
童話「裸の王様」の名シーン(従者が王様に鏡を見せて、「超言いにくいんすけど、王様、ぶっちゃけ全裸なんすよ」と真実を告げているシーン)の銅像があったりします。
また、お祭り期間中は街の中でちょっとしたイベントが開催されており、ピエロが子供向けの演劇をやっていたりします。
夜になると、野外で水面プロジェクションのイベントが開催されていました。川の水を空気中に噴射して、そこに投影するという仕組みです。白鳥の湖風のバレエを影絵の少女が踊っている、かなり大掛かりな演出でした。
ちなみに、これはその演出の一環で登場したロープアクトのお姉さんです。命綱なしでアクロバティックにくるくる回って妖艶な演技を見せてくれました。落ちたら下は芝生の地面なので、実際命がけ(?)の演技です。
以上、総括しますと、お祭りは楽しかったですし、案内してくれた日本人会の方も皆さん気さくで優しい方ばかりで、とても楽しい週末旅行になりました。
日本人会の皆さんを見ていて、日本の「グループに属さないと変わり者扱いされる謎ルール」や「一人だと大人しいのに集団化すると陰口やイジメで勢いづく国民性」に嫌気がさした人は、海外に来た方がのびのびと息をできると思いました。
私も思春期の頃はそういう同調圧力が大嫌いでしたが、日本の治安の良さや教育環境は抜群にいい(少なくとも理系は)ですし、物事が決められたルールどおりに進むことが多いので、大人になってからは気楽な国だと再認識するようになりました。
どちらが理想の世界かというのは人生のステップによって異なり、また何を優先しているかによるのでしょう。
今日のところは以上です。ちょうどデンマーク生活も二ヶ月が経過しました。小さい頃から外国に苦手意識があった私でも、そんなに居心地が悪くない国だと感じます。*2。
稚文をお読みいただきありがとうございました。